いじめの先にあるもの

いじめ被害者・加害者という言葉に違和感がある。この問題の矛盾はいじめられる側の大半にいじめる側の経験がある事だ。たとえば全体の9割がいじめられた経験がある一方で9割は誰かを虐めた経験がある。最低でも8割程度はいじめられると同時に誰かをいじめているのだ。これはネットの加害者いじめを見るまでもなくいじめられた側が再びいじめられることを恐れていじめに加担してしまう心理を自分のうちに見れば十分理解できる。むしろいじめる側が被害者意識を持っているのは単なる言い訳ではないのだろう。

自分が思うにいじめの本質は人が自分自身の「いじめる」側面を見ようとはせず「いじめられた」側の経験しか意識しない点にあると思っている。それぞれがいじめられた経験を優先しいじめた過去やいじめる未来を軽視すれば報復の連鎖は終わらないのだから、なぜ一方に加担してしまうかが鍵となる。

いじめは社会の縮図である。覇権国家が破綻国家を抑圧し大企業が労働者を抑圧するように仕組まれた社会で、「誰かをいじめてはいけない」という説教は子どもに対する欺瞞以外の何ものでもない。そして何に抑圧されているかわからない場合、人々はいじめられた経験を特権化しお互いに殺し合うだろう。

10日に東京地裁がプロバイダに匿名でいじめた側の情報開示を命じた。元男子生徒は16歳で母親が訴訟等を頑張った結果らしいが、自己犠牲的な母親の子供への献身が無意識からネットの規制技術に乗り出すとき、テック企業によって設計される未来社会には必ず母親的な「愛情」が入ってくる。しかし母親という特権的役割は自分の子供以外に対する排他性の裏返しなのである。