「戦後思想の荒廃」吉本隆明

戦後民主主義が荒廃の極致だと言われ続けて何年経っただろうか。この著作の初出が1965年だからもう50年以上経過しているにも関わらず未だに脱却すべきレジームは戦後なのである。であるから戦後を単なる荒廃として理解するよりもその荒廃が持つある種の強さに注目すべきではないだろうか。

吉本が批判するのは第三者としてベトナム戦争に係ろうとする平和主義者(開高健大江健三郎、山田宗睦)であるがこの平和主義は憲法9条という条文を理念化する点において現代にいたるまで継続している。護憲運動が代表的な例である。

憲法9条を含む日本国憲法がなぜ70余年も続く護憲運動の理念になりえたか。結論から言えば天皇が公布したからである。大日本帝国憲法の改正という手続きを取った以上、天皇が裁可し交付する形は避けられなかった。国民主権、平和主義、基本的人権という三大理念はそのどれも保障されていない天皇(天皇主権、軍国主義、臣民の義務)によって公布された時点で現実過程としては大きな矛盾を抱えており、政治過程としては最高度の幻想として成立した。天皇戦争犯罪者を天皇=平和の象徴に転化するという詐欺を行うことで戦争の実体を平和の虚構にすり替える作業。吉本隆明は政治過程の本質は幻想だという割に9条、護憲運動に含まれるこの幻想過程を見ていない。

とすると戦後民主主義や護憲運動がどれほど的外れなものに見えるとしても、緊迫化しつつある現実よりも天皇制という幻想の一貫性を優先しているのであれば運動や思想としては何よりも強固なのである。戦後思想の的外れは戦前において10倍の国力差を無視してアメリカに戦争を仕掛けた大日本帝国の的外れに近い。「1940年体制」が持続できているのも天皇制というバックボーンが生きているからだろう。

経済過程からのズレとして天皇制や護憲運動の幻想が成り立つのであれば、平和=戦争は不可避であるという吉本のある意味で当たり前な現実認識は戦後思想の批判としては不十分であるどころか護憲運動の幻想性を補強している。

あきらかに人間の存在は資本の論理からズレている。天皇制もまた資本の論理にはなじまない。この点において自分たちは天皇制に同一化してしまい、資本の論理を逆転できるのは〈天皇制〉だけという幻想を持つ結果に至る。天皇制という現実過程からのズレはいずれ現実そのものを破壊させるが、それは歴史が十二分に示すところである。