「黒魔術による世界の没落」クラウス

ジャーナリズムの「装飾」を「あらゆることがあたかもなのだ」と批判するクラウスは、文芸欄に広告が掲載されることよりも広告がポエジーによって装飾されることをより問題視している。

例えばジャーナリズム的感性の源流となったハイネの詩である。

「娘さん、しっかりなさい。こんなことは珍しくはない、陽は前に沈んでも、やがて後ろからやってくるものだ」と日没に感動した女性に呼びかける詩を「女の子に敬意を払っているのではなく、日没に敬意を払っている」センチメンタリズムと批判するクラウスはシニシズムにおいてハイネを軽く上回っている。しかしジャーナリズムが一見イヌサフランを描写しているようで、詩が機械的幸福論の一部として機能している矛盾を突いている。

現代のジャーナリズムは視界のはるか外に存在する水平線の彼方の汽船を詩的に描写する。クラウスにとってこのような視界の拡大は近代的合理主義の出所である「暗闇」を失われた精神の代用物である不安として表出させるだろう。

「美しく書き、ピアノを弾いていた」ただそれだけの十分だった過去への憧憬が過分とはいえ、供給が需要を生み出さない世界への喪失感と奇形の未来への不安はクラウス「自身」の問題意識や言葉なのである。