「二・二六事件を読み直す」堀真清

青年将校に同情する著者は、皇軍派と西田派を分離した上で、後者の「純潔」を称賛している。二・二六事件以後に「幕僚ファッショ」による上からのファシズムが実行されたという記述は、青年将校の代弁といえる。

しかし、彼らの「革新の勇気と情熱」を称揚することは、彼らが4日間で次第に追い詰められていく経緯を軽視しすぎている。

相沢が北一輝を「信じている」と言わざるを得なかった事情や兵隊が栗原中尉が読み上げた「蹶起趣意書」を理解できず、「半ば呆けている」状況を著者が理解できているようには思えない。青年将校の空回り、大乗的物言いの虚しさこそが二・二六の本質ではないか。

いくら国家の革新や皇国の為といっても、そのような大義名分を立てなければ行動を起こせない彼らの主体性の無さ、無思想は青年将校たちが抱えていた疎外である。

青年将校の幕僚ファッショ批判も中橋基明の「最後の面会の時、後を振り返って見られた母上様、おしげ叔母様、高ちゃんの顔が目に浮かびます」という遺言ほどの価値もないのである。