「それをお金で買いますか」マイケル・サンデル

サンデルによれば腎臓を売買すべきではないという立場は2つに分かれる。

まずは公正性の立場。腎臓を売買する市場は腎臓を売る以外に金銭を得る手段がない貧しい人間を搾取するためたとえ自発的な取引であっても公正ではない。

次に腐敗の立場は臓器市場自体が人間の身体を予備部品の集まりとみなし、人間を侮辱し、物質化する見方を助長すると主張する(p158)。

サンデルが強調するのは腐敗の立場である。

金銭的インセンティブが公共心を腐敗させる事例としてスイスのヴォルフェンシーセンという村に放射性廃棄物処理場の候補地を作ろうとした際の調査が挙げられる。その調査によれば処理場の建設に毎年補償金を支払うと申し出た場合の賛成割合は25%で、金銭的インセンティブが無い場合の51%から半減した。サンデルは公共心が金銭的インセンティブによって相殺され「腐敗」したためだとするが、住民は金銭的インセンティブから処理場の危険性を認識したために賛成割合を下げたのかもしれない(p164)

サンデルはデニス・H・ロバートソンの愛の希少性という考え方にも異議を唱える。ロバートソンは愛の希少性を保全するために人間の攻撃本能や取得本能に答える市場の役割を説いているが、サンデルは愛に容量などなく「国家が国民に多くを要求すればするほど国家に対する国民の貢献は大きくなる」と主張する。しかし仮に夫婦の愛が無限大で国家に対する貢献も容量の限界がないとするならそれらの愛はなぜ「特定」の個人や国家、共同体が対象なのだろうか(p181)

イスラエルの学生ボランティアの事例も愛の限界を示しているように思われる。金銭的なインセンティブがない方が募金を多く集められるのは彼らが生活のための金銭に困らない「学生」でありモラトリアムだからである(p167)。金銭的インセンティブを与えられた学生は報酬を通じて善意の有限性について知ってしまうために、知らない学生より募金に積極的になれないのである。つまるところ愛の希少性や善意の限界は一人の人間に与えられた時間の有限性に起因していると考えられる。

サンデルは打率よりも出塁率を重視するマネーボール式野球を嫌っている。確かに「時間のかかる打席とフォアボールによる出塁だらけの試合は退屈な見世物」だろう。しかし問題なのはアスレチックスが採り入れた統計的手法を他のチームも模倣したという点だろう。スポーツを勝利という価値観で規定した場合、出塁率が重要視されるのは野球というスポーツのジャンル自体が抱えていた退屈さが露呈したからではないだろうか。野球本来の致命的な欠点がマネーボールによって暴露されたら、古参の野球ファンやサンデルにとっては面白くないだろう(p253)

サンデルが友人関係について言っていることは一見正しい。たしかに金銭で購入した友人関係は金銭関係でしかない。しかし元々友人関係が存在していなかったり破綻していたのではないだろうか。元々存在しないから、金銭に基づく関係も友人関係や恋人関係と錯覚してしまうのではないだろうか。アメリカは広告の国でありインセンティブがあらゆるものを商品化している。それは元々あった人間関係を腐敗させるのではなく元々疎外されていた人間関係を露呈しているだけである。

ケネス・アローが主張しているように血液の売買は血液の無償提供を否定しない。もしサンデルのいうように腐敗が生じて無償提供から売買への流れが出来るのであればその無償性自体が有償であり本人にとっては負担だったということだろう。

規範や公共善、道徳という言葉が空虚に響くのはサンデルが理想とする球場から、「雨が降れば金持ちも貧しい人も等しく濡れる場所」から出た時の貧しい側の喪失を説明できないからである。

 悪しき商業主義のユーモラスの描写こそサンデルの面目躍如だろう。ソローのウォールデン池がウォルマート池になるかもしれないというボストングローブ紙の社説、州立公園をとても静かなマーケティング環境ととらえたガバメント・ソリューションズ・グループの最高経営責任者、エリー郡刑務所の囚人を囚われの視聴者と表現する広告会社の代表、ハーシーチョコレートやマクドナルドが提供する栄養について学ぶための協賛教材云々。ブラックジョークとしか思えないアメリカの商業主義の発想はおそらく真面目に論じられるがゆえに超現実的なのである。ソ連核兵器を作りながらアメリカの台所のような「高度」な消費文化を作りえなかったが、最新鋭の台所のような「不要な贅沢品はいらない」と至極真っ当に答えたフルシチョフが商業主義の破滅的なユーモアを理解できなかったのは致命的であった。