「真昼の盗人のように」ジジェク

ジジェクリベラリズムをシステムを変えずにシステムを批判していると批判する。

特にやり玉に挙げられているのはアイデンティティポリティクスだろう。ジジェクはミートゥー運動はロザラム事件のような貧困白人女性を狙ったパキスタン系のギャングを問題視せず、裕福な女性に性器を見せたルイCKを比較してみせる。

ここで問題に思われるのはセクシャルハラスメントと強姦事件を並べて紹介することでセクシャルハラスメントの被害が相対化されている点だろう。

パキスタン系」であることを強調した強姦・誘拐事件という極右が好んで取り上げるテーマをミートゥー批判に転用するジジェクの男性中心性は男性対女性というこれまた極右が好んで取り上げる対立図式に回収されてしまう。

そもそもジジェクはなぜここまでミートゥーのようなアイデンティティポリティクスや政治的公正の議論を嫌うのであろうか。ジジェクが男性視点で階級闘争の「普遍性」について語っているからに他ならない。

「性的欲望はつねに暴力的な介入として経験される(P263)」とジジェクは主張するがその根拠は「21グラム」という愚にもつかない映画なのである。性的関係に暴力が介在するとしながら女性の性的な要求を男性側が断る際に「この中断の象徴的暴力、この強いられた申し出の拒絶という象徴的暴力は、彼が彼女の申し出を受け入れ、実際に彼女を犯した場合よりも酷いのである」と矛盾した論理を展開する。ちなみにこの場合彼女を犯すとは強姦されるという意味である。ジジェクにとって男性が女性に性交を強要するよりも性交を迫った男性が女性に「拒絶」されることの方が暴力的なのだ。ジジェクの貧しい性意識が露呈しているというべきだろう。

ジジェクは繰り返しブレヒトの定言「銀行の設立に比べれば銀行強盗は可愛い」を引用しているが、銀行強盗を理想化する幼稚な屁理屈が「おのおのの生活様式を内側から切り裂く敵対関係」を普遍性として喚起すると思っているのだろうか。

普遍的な敵対関係が階級闘争なのだという意見も単調である。アイデンティティポリティクスが左派の基本方針になっているのは従来の階級闘争が男性中心であるというアイデンティティの結果失敗したという歴史的な経緯がある。

スターリン主義を客観的ユーモアとして称揚し、トランプの主観的ユーモアに対抗させるという戦術も冷戦構造の反復である。絶対的ユーモアはどこにいったのだろうか。

マルクスラカン風に解釈するというジジェクのラディカリズムはジジェクという特殊性において失敗しているが、「唯一の普遍性は否定的な普遍性、失敗という普遍性」というルビッチ的中央管理委員会において失敗は正当化される。