彼女たちの連合赤軍

歴史の不在という歴史認識の決定的な欠如。

歴史とは自己意識の上昇過程である以上、歴史意識は欠如したとしても歴史としては回帰してしまうのである。

歴史がオウムかTVゲームでしかないなら大塚の唱える「矮小なるものの歴史化」も反動であり安易な正史への回帰でしかない。

問題なのはすべてをフラット化している〈上からの視点〉=記号の記号と歴史が相対化された後に出てくる「個」という〈極度の孤独〉=モノのモノの意識である。

イグアナ娘が安易に母性と妥協してしまうと批判するが、すでに連合赤軍で粛清された女性=母親として自己表現していなかったか。

下請労働者にとって仕事は自己実現が問題ではなく、所得や生活といった階級問題ではなかったかという観点の欠如。

上野千鶴子のぼくが森のわたしに類似するものとして一緒くたにされているが、ぼく=私として特権化している森の立ち位置がなぜ連合赤軍のリーダーという形を取ったのかという必然性への言及はなし。

またねじまき鳥クロニクルも正史への陰謀論的回帰に対する抵抗の物語として描写されるが、久美子の性的な身体や満州の過剰な暴力を通じた痛い身体への言及もなく、構図だけですべてを語ろうとするため、なぜノボルが久美子の手によって殺されなければならなかったか、それを主人公は止めようとしていたのかが曖昧になってしまうのである。