「言語の牢獄」ジェイムソン

 

ジェイムソンはソシュール、フォルマリズムの「共時・通時の対比」を経て構造主義の批判に至る。

言語の牢獄とは「構造分析が対象言語の位に移り、それがもっと複雑な体系に吸収され今度はその体系がそれを説明する(p219)」というメタ言語の「無限の構築」を指している。

ジェイムソンはこの構造主義が陥っている自己意識の困難に対して、グレマスの記号論を取り上げている。つまり「無限後退を意味の本質のヴィジョンの中に含める」ことで「意味化作用とはこのようにして、言語のあるレベルから別のレベルへの転位、ある言語から別の言語への転移に過ぎず、意味とはそのようなコード変換の可能性に過ぎない(p227)」とすることである。

ジェイムソンのコード変換としての真理には、彼自身が弁証法唯物論とリビドー理論を同化させようとした構造主義についての「二つの体系の個別的内容を無視」し「アレゴリー的に解釈する(p204)」という批判がそのまま当てはまる。

デリダの哲学的言語は、みずからの概念の牢獄の壁面を手さぐりで進み、あたかもそれが、他の者たちがいまだに思いもよらない、ありうる一つの世界にすぎないかのように世界を内部から記述する(p195)」ような概念的抽象性はジェイムソンの構造主義認識にもみられるのである。