「時代病」吉本隆明・高岡健

高岡は上野千鶴子の授業で女子生徒全員が性的被害があると手を挙げたことに関して実際の被害経験ではなくバーチャルリアリティの被害なのだと断定するが、だとするならばなぜバーチャルな場ではなく現実の場において手を挙げて告白しているのか。バーチャルと現実を混同しているというゲーム脳批判者と同レベルの主張なのであれば、バーチャルと思われているものが現実の被害だったという経験も挙げる必要がある。

またこの場合の高岡の立ち位置はバーチャルではない保証もないだろう。性的被害がバーチャルである(現実には存在しない)という高岡の認識がバーチャルな無意識にからめとられていると言える。そして高岡のような無意識の性暴力加害者が自身の加害性をバーチャルとして否認しているのであれば現実の性暴力被害は公表されている以上に一般化していると考えられる。

高岡の被害妄想的バーチャルは女性の社会参画への言及にも現れている。「現代の女性が社会参画を試みると、それがうまくいかないときには他者を攻撃するしかない(p181)」といい、その攻撃性がうまくいかないと自殺すると結論付ける。ここでフェミニズムを他者への攻撃ととらえる点で高岡がいかに被害妄想的ミソジニーにとらえられているかが明らかになっているが、攻撃性の結果としての自殺は男性の方が多いのだからフェミニズムを女性の社会進出の失敗としての攻撃性ととらえる見方はこじつけだろう。フェミニズム=女性という見方も固定観念的である。

吉本隆明もバーチャルな思い込みでマルクス主義を否定している。「靴を10足もっているやつが100足持っているやつを羨ましがるかというと、そんなことをない」というがマルクスが指摘した資本主義の特徴とは価値の悪無限化である。資本家が所有する靴は交換によって得られる剰余価値であり、利潤率である。転売屋であれば利潤が得られる限り100足でも1000足でも保有しようとするだろう。

レーニンマルクス固定観念、「超資本主義」以前から繰り返されてきた常套句(農民は保守的云々)で批判してみたところで、その批判自体が「どの方向へ行けばいいのかわからない」という知識人の痴呆状態を改善するわけではないだろう。