防災の自己責任論

日経新聞は防災も自己責任だと言う。つまり犠牲者たちは防災意識が足りなかったために被害にあったと言いたいのだろう。

10月14日の「もう堤防には頼れない」と題した記事によれば、堤防に水害を防ぐ効果はなく、堤防のかさ上げをしても人口減少が続く中で費用対効果(!)があまり得られないので、住民各自の意識改革で何とかしろという。

311でハード対策の限界が見えたというが、13年間で公共事業費を3分の1にしたのは日本政府である。ハードの不足によって311の甚大な被害が生じたのだ。原発にしても08年の時点で試算が出ていたにもかかわらず、数百億という膨大な工事費がかかるので津波のハード対策を怠った結果、原発事故が起きた。この分かりやすい例を日経の記者は忘れてしまったのだろうか。

記事の根拠となっているのは18年の中央防災会議の報告書であるが、会議は過度な防災意識を庶民に強要している。640万人に避難勧告・指示を出しながら21万人しか避難しなかったのは意識の欠如ではなく、避難計画が不足しているためである。要支援者の避難計画は人口の9.3%をカバーしているに過ぎない。日常生活に介助が必要な要支援者が暴風雨の中を「自分の命を守る意識」とやらだけで避難できるだろうか?

防災意識を論ずる際によく正常性バイアスが問題にされる。正常性バイアスとは自分にとって都合が悪い情報を無視する傾向のことだ。

しかし正常性バイアスの事例としてよく挙げられる大邱地下鉄放火事件もただ乗客が座ったまま逃げなかったわけではない。その前に運転士がマスターキーを抜いて一人で逃げ出した結果、非常用バッテリーによってドアが開けられなくなったという乗客にとって絶望的な事情があるのである。

すべてを個人の意識の問題に還元するなら、個人の力ではどうにもできない問題(少子高齢化・人口減少・所得の低下・税や社会保険料負担の増大)も自己責任として一個人がツケを払わさせられる。そして政府や企業の過失責任はいつまでも裁かれないので、社会全体は致命的な失敗を繰り返すだろう。

災害で命を失うのが自己責任なら、家を失うのも当然自己責任である。火災保険加入者の7割が水災補償もあるらしいがリフォームした中古住宅などの場合、2割程度の住宅が火災保険が無い。水災補償がついた住宅の割合は7割よりもっと低いだろう。保険料負担も重く、幅広く保障する場合は10年間で20万円以上の保険料を払う必要がある。

このように自己責任論は可処分所得や年金支給額が減り続けている世帯にさらなる負担を要求している。増え続ける税や社会保障の負担に加えて。建築後30年も経てば資産価値がなくなる欠陥住宅のために人々が背負っているこういった負担やリスクは「自己」責任にしては余りにも大きすぎる。