「経済的理性の狂気」ハーヴェイ

ハーヴェイはマルクスが「資本論」で示唆した方法、系統的論述によって資本の内的運動法則を分析する手法に批判的検証を加えている。ハーヴェイによればマルクスは価値生産を重視しすぎており、価値実現(流通)や分配(利子生み資本の優位性)への言及が不足している。

剰余価値の再分配は資本集約・労働節約型産業の方が、労働集約型産業よりも有利であり、投資家としての個別資本家は価値生産よりも利潤最大化を追求する(p56)

産業資本家も「回転期間のあいだで折り合いをつける」ために銀行という信用制度から融資を受ける必要がある(生産者は交換に依存するが交換は生産に依存しない)ため、マルクス擬制資本の流通と名付けた世界では信用創造によって未来の価値生産を債務懲役化する。利潤の追求は債務の返済を必要とする(p68)

年金基金の利子生み資本としての投機行為は労働者の年金基金が投資されている株価を押し下げる懸念を生み出しストライキや賃上げを困難にする(「ローンの重荷を背負った自宅所有者はストライキをしようとしない」p100)

ハーヴェイは資本の流通を資本主義の「総体性のエンジン」として重視しており、7つの契機(技術・自然との関係・社会的諸関係・物質的生産様式・日常生活・精神的諸観念・制度的枠組み)は「関係的に結びつきあっており」総体性を動かすとしてマルクスに関する固定観念である技術決定論を否定している(p163)

またハーヴェイはマルクスが「時間的発展力学」を世界市場から分離し、資本が一つの閉鎖空間に密封されたと仮定し、商品が価値通りに交換されるとした前提に植民地化のような資本主義の内的な矛盾の外的解決をほとんど考慮しなかった点を批判する(p190)

おそらく精神的諸観念や社会的諸関係を流通の基盤に据えているハーヴェイと物質的生産様式や技術を中心に議論を展開したマルクスの相違なのだろう。

ハーヴェイが言うところの非物質的ではあるが客観的に存在する資本の総体性は現在利子生み資本によって動かされているように思える。

貨幣の終わりなき過程である悪無限である利子生み資本は有効需要のほとんどを信用制度の中で生み出された国家に貸し出される擬制資本である(p245)

交換価値の膨張は使用価値の加速度的膨張を伴う。サブプライム問題の後世界の需要を吸収したのが中国の過剰資本であった事例が示唆している(p259)

交換価値の側面からの運動で称揚される代償的消費も自然や労働者に意味を与える資本の運動の中で顕示的消費となる(p271)。

ハーヴェイがいうところの普遍的疎外は価値形成・価値実現・分配の各契機で起きている「完全な空疎化」であるが、マルクスはそれを「普遍的総体化」「自分の総体性の生産」として可能性を見出している。

ハーヴェイが批判しているマルクス金本位制認識は現在も有効であると思われる。金本位制を放棄し変動相場制に移行する以前から金1オンス=35ドルという交換比率は仮構であった。現在も金が安定資産として取引され政府や中央銀行が所持している限り、実体経済と金融経済の関係はその比率が変わった(より仮構化が進んだ)と考えることが出来るだけである。使用価値の加速度的膨張は金融経済の拡大・高度化に対する実体経済の連動した働きと考えられる。