「迫り来る革命」ジジェク

本書はレーニン主義ラカン精神分析によって解釈・修正している。

典型的なのはレーニンの反映論への批判だろう。レーニンがいうように事実認識として外部に端然と在る客観的現実ではなく、私自身がまさにそうした現実の一部としてあるため、客観的知識は不可能であるとされる(p42)

しかしながら仮象こそ本質とジジェクが言明するとき(p45)、現実的なもの(リアル)が回避されていないだろうか。党・分析者が自明の前提とされているのである。レーニンの反復がレーニンへの回帰を意味しないなら分析者こそ分析すべきだろう。

ジジェクは親フェミニストの上っ面の下には女性が性的な嫌がらせを受けることに快楽を感じ始めるだろうという考え方があると断定する(p97)が、これはジジェク自身のこだわりであり本質的な仮構なのだろう。そこにリアルなものの葛藤はなくジジェクにとって都合がいい幻想は仮想化した資本主義への順応である。マゾヒズムサディズムへの有効な抵抗であるというすべてを享楽を起点にした主張にどこまで有効性があるだろうか。タバコを禁止するという享楽否定的な傾向はそれ自体が享楽であるとするなら享楽を序列化している上位の力が存在すると考えられる。犠牲者が自己正当化のために自らの被害経験を享楽として位置付けるのはそのような力の作用だろう。

レーニンの反復はレーニンへの回帰を意味せず「彼固有の解決策は失敗した」としながら「ユートピア的火花が存在したことを受け入れる」という(p245)。しかしジジェクの方法では現実的なものを本質的な仮構ととらえた時点で経験の商品化、資本主義の仮構化に協力する結果しか得られないだろう。