山口敬之による強姦事件

この事件は単なる性犯罪ではなく権力の問題を含んでいる。

司法警察員や担当裁判官が犯罪事実を認めたからこそ逮捕令状が発布されたのである。しかし内閣審議官中村格という権力の一存によって執行を中止された。

権力者の側近であれば司法制度すら歪めることができるのだ。法の下の平等という機会の平等すら建前でしかない社会で、この先例は今後最大限に性犯罪以外にも悪用されるだろう。

東京地裁の判決が山口敬之の強姦を立証している。その後に開かれた山口の会見では被害者の伊藤詩織氏に対する誹謗中傷が行われた。権力の側がネット世論を煽動している。

伊藤氏の人格に対する非難は強姦の事実が動かしようがないことを逆に証明している。例えば山口は会見で性犯罪の被害者は笑わないと述べる。しかし人間は楽しい時に泣いてしまったりするのと同様、悲しい時にも笑うことはできるのである。

この人間心理の事実を山口のような動物的権力は否定する。彼ら権力が確信犯であれなんであれ笑っているという表面的な事実を自分の権力にとって都合よく解釈し、被害者に対する匿名性の暴力を正当化する。このような人間の心を持たぬ獣が性犯罪を行い、それが地裁判決で証明されたのは実に必然である。

しかし問題は法的な事実より難しい。この性犯罪は「政治」の問題である。これは山口の犯罪に官邸が介入したという意味ではない。官邸の介入は問題にすらなり得ない事実だからだ。

問題はこうである。「果たして被害者個人の救済のためには政治的な大義は犠牲にすべきか」。この強姦事件を追及するため際に官邸の介入や権力の問題を俎上に上げてしまうと行政権力が司法判断に対してかける圧力が強まってしまう。伊藤氏が控訴審で不利にならないためには司法制度を含む権力に一時的に妥協しなければならないだろう。個人を救うためには非政治的になる必要がある。これが「政治」が持つ厄介さである。

権力側が伊藤個人に対する人格攻撃を強めているのは、問題を非政治化したいというシグナルだろう。性犯罪は当事者「自身」の問題であるというオチをつけたいのである。

自分は伊藤氏個人がこの手の妥協をすることに躊躇うべきではないと思う。弁護士や後援者は彼女個人の救済のために権力と交渉すべきだろう。一人の心を大多数の正義のために犠牲にしてしまえば山口以下の獣に成り下がってしまう。しかしこのまま政治的な正義が行われなければその他大多数の性犯罪の被害者は今後も泣き寝入りを強いられ続けるだろう。

一人の生命が全地球より重いと福田赳夫は言ったが、その政治判断が成り立つなら一人の生命は全地球の重みを背負うことができる。

同様に一人の心のために政治的大義を犠牲にできるなら、その大義を失った原因は我々一人一人の心の在り様ということになる。しかし逆の事実も示されている。つまるところ一人の心とは実現不可能な大義を背負う可能性でもあるのだ。