「アウシュヴィッツのコーヒー」臼井隆一郎

筆者はナチスユダヤ人絶滅政策をゲルマニア帝国の延長として捉えており、ドイツ領東アフリカで起きたマジマジ反乱の鎮圧にその先行事例を見出している。

一方でナチスが参考にしたゲルマニア帝国という目標を設定し「総力戦」の概念を形にしたルーデンドルフドイツ国防軍ビスマルク等には好意的である。

その事例としてラーテナウが労働を生き方として捉え、マルクスの労働を商品として見る味方を退けている。ここで筆者は労働=商品というマルクスの見方は「資本主義を無害化」し「社会主義を格下げ」してしまうと主張するが、労働=生き方という感傷的な見方では労働に値しないとされた人間(ユダヤ人や障害者、女性など)はアウシュヴィッツ以外の選択肢がないといえる。

アウシュヴィッツ収容所で収容者に対して約束されたシャワーを浴びた後にコーヒーを飲ませるという嘘は著者が賛美するルーデンドルフの総力戦によって趣味嗜好に至るまで生き方を規定した権力の成れの果てなのである。

コーヒーを飲むことで「高邁なスーフィーたちの精神に立ち戻る」著者にとって総力戦の現実とは「世界の味わいは一変する」程度の「苦々しさ」にすぎず舌鼓を打つ対象に過ぎないのだろう。

ドイツが中心となるEUゲルマニア帝国に重ね、新たなドイツを「愛すべきバケモノ」で「ますます面白い国」になりそうと徹底的に傍観者の立場から「論評」している筆者のアイロニカルな姿勢こそ総力戦体制の結果(カーフィル化)の典型例だといえる。