言語にとって美とはなにか

形式主義論争を無意味と評し内容と形式を自己表出で簡単につないでしまうが、吉本自身も認めているように言語の能率化は自己表出を歪ませ幻想性として抽出している以上その隔たりは表現にも影を差しているとみるべきだ。

沈黙と記号に分裂してしまった言語をかささぎのわたせる橋【自己表出】で繋ぐとは美しい表現ではあるが自己表出が稜線でしか社会関係に触れることが出来ない状況で、自己表出の内部構造においてすら内容と形式の対立や矛盾は致命的であり、この混乱は表現の全体性などで消せるものではない。もちろん内容か形式を優先させ規範化したとしても解決しない。

内容や形式を規定するのは倫理ではないというが理論に徹する吉本の姿勢も十分倫理的に見える。

「静かにしてください」という言葉には指示や叱責がどちらも含まれているが、問題なのは言っている人間が叱責を強くした場合、指示の役割が小さくなるとともに叱責に対する自身の反発も拡大している点だろう。言語の始まりは抽象化ではなくこの二重化なのだ。

選択は芸術的な美の端緒だが同時に美に対する現実の復讐の始まりでもある。

2つの価値としての自己表出と指示表出は価値形態論的弁証法の過程を通じて言語を沈黙と記号という二つの階級に分化させる。吉本は価値の二重化が元々等価交換の不可能性に基づいて「実践的に」実現されていることを忘れている。

表現において架橋しても現実においては復讐される。仮構は現実を含んでいないし現実も仮構に繋がることはできない。この作用と反作用の動因を説明できなければ表出史の普遍的な可能性は単に一つの例外的な表現として終わるだろう。