夏の花 原民喜

妻の墓参りと原爆が「名称を知らない」夏の花として対比されている。

しかし原爆投下の際、語り手は便所にいて暗闇が滑り落ちる経験をしたが原爆の花は見ていない。妻の墓参りに持っていく花を「黄色の小さな花弁の可憐な野趣」と表現しているのとは対照的である。廿日市市に避難するまでに目撃する惨状が「超現実派の画」として表現されるようにほとんど傍観者として振る舞っている。

文彦の死体を発見するシーンにしても「涙も乾きはてた遭遇であった」と言う割に投下後に泣いたという描写がされていないのは妻の墓参りの時点で感情が枯れ果てていたいうことだろう。

「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」とは投下後の惨状に実感が伴わない表現と思われるが実感の無さはその後女中や甥が原爆以後の日常の中で死にゆく様を見ても何も変わっていない。

こう考えると夏の花は墓参りの黄色い花を主題としているが、供える花の名称を知らない点でその花が黄色い小さな花弁の野趣という印象自体も作者の心理も何ものも表していないとみるべきなのである。