日韓問題の本質

慰安婦批判の本質は日本社会が対外的な加害者性を認識できない点にある。この加害者性の否認は国内的な被害者性が問題になる場合に阻害要因に転ずる。

慰安婦の「強制性」は当時の日本政府の方針として慰安婦政策が行われた事実にしかない。92年に公開された各資料を見れば陸軍省による慰安所の開設・管理が行われていた事実は容易に確認できる。危害原理に基づき日本政府の国家責任が生じる。敗戦によっても自覚されなかった加害者性は戦後も貿易黒字、対外債権として存続することになる。

当時の慰安婦政策の国家責任(加害者性)を認めることができない日本外交は過去の戦争を総括できないだけではなく、現在行われている政策についても日本政府の国家責任を問えないだろう。その国内的な反映がアメリカ以上の自己責任による貧困強制社会なのである。

政府の方針で自助の努力を推奨されれば、貧困や格差はすべて個人の自己責任となり政府や社会の問題を考える事ができなくなる。自己責任論が支配的な社会で被害者性の発露としてのデモやストライキは権力者や権力にへつらう取り巻きからは「税金泥棒」と揶揄されるだろう。もはや政府批判によって方針を転換するための機会は完全に失われている。失敗を失敗として認識できない敗戦の構造は敗戦そのものによっていささかも損なわれることなく存続しているのだ。

大切なのは対外的な加害者性の無自覚が国内的な被害者性の阻害要因として「転化」している仕組みを認識することだろう。輸出規制によって生じる企業コストを国内の消費者する構造は一番わかりやすい<転化>の事例である。搾取した人間は搾取されるのである。自らの疑似ブルジョア性を認めることが出来ない人間が本物の権力を保持するブルジョアに対抗できる理論も正当性も持つはずがない。

被害者性の表出を困難にする転化を防ぐには、対外的な加害者性と国内的な被害者性が国家責任を問えない<弱さ>で共通している点を自覚するほかない。この認識は議会政治への根本的な批判として表すことが出来る。