「自己責任の時代」ヤシャ・モンク

筆者は自己責任論において懲罰的責任像から肯定的責任像への転換を試みている。肯定的責任像とは現代の責任論を①責任観念、と②結果責任に区分した上で①に肯定的で②に否定的な立場を意味する。

①に肯定的な責任論は責任否定論への批判として展開されている。責任否定論とは主流派の懲罰的責任像に対抗する戦略であり、不平等の責任は個々人ではなく構造的変化と意図的な政治決定(p14)に求められるという立場である。筆者によれば責任否定論の問題は①制御原則の非道徳性、②直観否定の非現実性の2つである。特に強調されるのが「貧しい人々を恒常的な被害者に仕立て上げることで、潜在的な主体性の担い手として見ることがますます困難になっている」ような①に関連する指摘である。①に連なる思想として帰結主義以降の契約論、リベラリズム、運平等主義が批判され、これらの責任否定論は懲罰的責任像と「責任の枠組み」(p19)を共有しているとする。

責任の枠組みとは他者への対応をその人の責任である帰結が生じた過程に結び付ける考え方であり、責任否定論も選択運という形で無批判に輸入しているという。「左派の大半は結果責任としての責任の規範的前提を否定する代わりに、貧困者の運命は実は当人のせいではないと主張することを選んだのだった」が社会科学における進展は左派の意図とは反対に個人の主体性を強調する方向だった点で②の非現実が強調される。

責任否定論者にとって正義の実現とは道徳的慣行や政治制度から運の全般的な影響を取り除くことであるが(p107)運排斥原理は究極的にその人の道徳的評価の余地をなくしてしまい、直観に反してしまう。独裁体制下で残虐な行為に及ぶAと人種的寛容な国で育ったため迫害をしなかったBでは、運を排除した場合道徳的なAはまったく非難されず非道徳的なBが非難される可能性がある。筆者がいうようにアイヒマンの凡庸な悪を個人の道徳レベルの問題に落としていいのだろうか。そこには個人の善悪を超えた因果運や構成的運の作用があると思われる。またAとBが交換可能であるとしなければBが独裁下でどのような行為に及ぶかは憶測でしかないだろう。

本書の最大の問題点は構成運の扱いである。例えばアイデンティティは才能と深く結びついており、努力を構成運が原因ということは有権者の同意を得られないとされる。有権者が皆才能を開花させるための努力をし、アイデンティティが得られるだけの結果や社会的地位が市場競争において得られるだろうか。筆者は責任追随的福祉制度の屈辱的な開示と同じ轍を踏んでいる。また著者の「直観」と有権者の同意が自説の補強のために混同されているのも問題である。

またレディガガのボーンディスウェイ基金は同性愛を「このように生まれた」と表明し正当化したのは「ひどい見当違い(p138)」だとされ、「レイプ」も先天的特質であるために先天的同性愛を肯定するなら同様に正当化されてしまうと主張する。異性愛・同性愛とレイプ・小児性愛の違いは同意に基づくからとされるが、同性愛の自認は「同意」ではない。あくまで本人の選択によってジェンダーは「このように生まれる」と決定されているのだ。「このように生まれる」とは先天的な「選択」を後天的に意味しており主体性の立ち位置が違うだけの問題を、「同意」がなく先天的だというだけでレイプ犯罪と同列に扱うのは著者自身の偏見(精神的型)だろう。

また懲罰的責任像と責任否定論に共通する因果的制御を説明するには正常性条件や自然性条件が前提として存在しているため、運消去原理は支持をされておらず行為者に道徳的責任を負わせることができるとする。

懲罰的責任像の②結果責任は福祉制度における責任追随傾向の拡大として紹介される。これは立法行為を通じた直接的削減だけではなく、横滑り・転換・重層化として民間機関が担っている範囲を縮小させてきた。この意味で自己責任論は責任をもって行動した人に対する福祉プログラムのような責任追随的な制度にはあまり影響を与えられなかったが、責任緩和的側面の弱体化には寄与したといえる。筆者は結果責任や責任追随の弊害としてその制度下で暮らす人々が長期的計画を立てるための心の平穏を得られなくなるなどの規範的な代償を挙げる。

では肯定的責任論とは何だろうか。一言でいえば「帰結」と「責任」に関する規範的な判断である。帰結は実証主義的、因果的に説明できないため選考する多数の規範的で制度に関わる問題によって決まるとされる(p184)。先行する規範を重視する考え方は人々の過去の選択が特定個人の責務に深く影響するという平等主義的解釈(p51)に類似している。

筆者は責任追随性を緩和させる理由として正の外部性を挙げるが、一方で責任の有無は社会制度と社会的期待に左右され、財政的に制約がある場合は被害者の責任を追及し、福祉受給に制限を設ける選択肢を与えている。要するに正の外部性と財政的制約のどちらの価値を優先させるかを民主的討論に託すのが規範的判断の正当化の根拠であるようだ。

*社会科学に見られる主体性の強調は構造や運といった外部性が主体に内面化した証拠である。「正の外部性」を決定する民主的討論も外部性よりも個人の内面が優先される以上客観的合意は得られず、筆者が称揚する「規範」的判断とは規範を作る行政の判断となるだろう。そもそも娘を迎えに行かず死なせてしまった母親の「責任」が「規範的」に決定される場合、母親の主体性は否定されるだろう。また因果的制御を否定したことで正常性や自然性という恣意的な基準でしか道徳的責任を問えないのであれば弱者が政治的・道徳的責任を問われる事態になる一方、強者は政治的・道徳的に不問に付されるのが権力構造だろう。

筆者は主体性や規範的判断の自明性を疑う事が出来ないために責任に追随的になっていると考えられる。責任追随性を緩和させるための正の外部性も民主的討論に託すという形で結局有権者の同意に追随させている。読者はヤシャ・モンクのこの無責任さ・追随性こそ問題にするだろう。