中核VS革マル

筆者は内ゲバを公安のグランドデザインとみており、この点において中核派のKK連合論に近い見解を披露している。

書物全体の印象から言っても革マルの権力の謀略論を中核派の機関紙によって否定する記述の傾向はどちらかと言えば中核派の方が革命組織として正統な印象を与える。(もちろん最後はどちらもどんぐりの背比べの次元で間違っていると付け加えているが。)

この本の致命的な欠点は、内ゲバの原因を宗教戦争と同じ両団体の狂気という説明不可能な仮象に求めているところだろう。

同じ革命的共産主義者同盟として始まった両派がなぜ内ゲバという過ちを非宗教的な形で起こしたのかについての考察がまったく無いのである。

もっとも筆者は自らをマルクス主義者でも左翼でもないと述べているので、理論的な検討はほとんどなされていないが、内ゲバの原因は両派の路線の対立というより両派内部の官僚主義セクト主義の対立が外に敵を見出すという弁証法によって内ゲバという形で現れたと思われる。

両派の内部文書でいつまで内ゲバを続けるのか逡巡する様子が指摘されているが、両派ともに内ゲバが間違った方針であることを自覚しているが組織内部の矛盾や対立が深刻であり「続けざるを得ない」のであれば、筆者や停戦を呼び掛けた知識人のような論理は無効である。

末端のセクト主義によって内ゲバ的状況に引きずり込まれ、指導部の官僚主義によって盲目的になり内ゲバを止める判断を留保するからこそ、他党派をウジ呼ばわりしたり停戦を宣言した相手を絶滅すると主張して懸命に自己肯定するしかないのである。機関紙に表れてる過度の精神主義や内部文書はその自己肯定の現実的困難さを率直に表している。

著者が要所要所で強調しているような路線上の対立は両派が内ゲバに突入しその泥沼から抜け出せなくなった理由にはならないと思われる。労働運動や組織を重視するか、革命的情勢を重視するかは程度の差はあどちらも必須であり、路線上の違いが暴力やテロで解消しない以上、内ゲバの要因にはなりにくい。

内ゲバの被害者数を見てみるとわかるが、元々同じ党派であったり系譜が違い組織同士の方がお互いに犠牲者を多く出している。つまり内ゲバは同じような内部矛盾を抱えた党派同士がその問題の原因を他党派の存在に付け替えた時点から始まっている。

両党派とも自らの過ちに気づいていながら内ゲバから脱却できないのも官僚主義セクト主義の矛盾が組織の存続上必要だからに他ならない。

内ゲバから脱却するには革命主体には暴力が付きまとうこと(有機的自然)、官僚主義セクト主義の対立(非有機的身体)はどちらも組織や個人において避けられない点、マルクス疎外論で述べた弁証法の中で解消する以外にはないだろう。

また筆者が言うように内ゲバ宗教戦争と同じ論理で行われているなら、他の新興宗教でも同じように内ゲバが起きていてもおかしくはない。

路線対立や誹謗中傷合戦はカルト同士で行ってもほとんどの場合暴力には発展しない。内ゲバは近代化の過程で必然的に発生した組織内部の矛盾と、近代化の反動として人間や社会の無意識に根ざしてしまった暴力を必要とする。近代化によって生じた特異性が近代以前から存在する宗教団体の存立基盤にはないため内ゲバにはならないのである。