「可愛そうにね、元気くん」古宮海

演じられる嘘としての恋愛とそれを超越した真実としての支配は対立している。前者が八千緑と廣田であり、後者はこの物語を最後まで支配(理解)していた鷺沢である。

鷺沢守は廣田元気が同人誌の被写体・八千緑と恋人関係になり、「理想的」な恋人を演じることで最終的に社会的地位や人間関係のすべてを失うと分かった上で廣田の恋愛をサポートしていた。廣田はすべてを失っても鷺沢が望む完璧な奴隷としての立場ではなく自分で欲望を埋める道を選ぶのであるが。

最終的に「飼い犬」に首輪を捨てられた鷺沢守の「誤算」はなんだろうか。

鷺沢は廣田が同人誌で虐待される八千緑に自身のトラウマと理想を重ねている潜在意識を理解している。また八千緑がマゾヒストではなく自身が求められる役割(出来の悪い娘、弟の引き立て役としての姉、クラスのつまはじきもの)を演じて同情されることにしか存在意義を見出せない破滅的な生活であることも見抜いている。しかし彼ら二人の成長までは見通せていなかったと思われる。

八千緑がすべてが露呈し自宅に引きこもる廣田を訪ねて「気持ち悪い」と宣言し自身を廣田を興奮させる道具ではないと言いつつも、それでも学校に行こうと言ったことは、その後転校した廣田が社会人としての毎日を送る上で支えになっているのである。ラーメン屋で再会した時に八千緑は結婚しており、八千緑と廣田の恋愛関係は終わったと描写されるのであるが、一方で廣田の同僚が紹介しようといっている「地味な女性」と八千緑にあの日はありがとうと伝えられた廣田が新しい恋愛を演じる可能性は残っていると考える。現実では満たされないが同人活動は続けるという廣田の出した人生の選択も変わるのではないだろうか。

つまり鷺沢の想定を超えた二人の変化とは演じることのリアリティの変化ではないだろうか。鷺沢は恋愛とはつまるところ相手を支配することに過ぎないというこの社会の真実にのみ重点を置いていた。鷺沢に恋愛感情を持つ牛島に興味を引かれないのはそのためである。これは牛島の恋愛に対する忠実さや良心を屈服させることが出来ないと鷺沢が判断して線を引いたからだろう。八千緑や廣田はSMという二人にとって犠牲の多い方法で恋愛関係を演じただけであるが、この二人もまたその失敗を通じて演じることのリアリティを学んだと思われる。ラーメン屋のシーンが典型的な例であるが、ラーメン好きの八千緑に合わせて自らも大盛のラーメンを頼む廣田に対して、鷺沢はチャーハンを選ぶ。ラーメンではなくチャーハンを頼んだ理由として汁が飛んで制服が汚れるからと答えるが、この鷺沢の潔癖さは嘘を演じて挫折しそのリアリティの中で生きる術を学び完璧な奴隷とは異なる存在になった廣田を切り捨てる以外の選択肢を許さないだろう。三人でカウンターに並び食事するシーンで鷺沢だけが横を向き、店の外?を眺めているシーンは鷺沢の異質性を際立たせている。

鷺沢が廣田のこの変化まで想定していた可能性もある。ラストシーンで可哀想にね、元気くんと呟く鷺沢は微笑んでいる。これは鷺沢の支配を脱しても廣田は日常や恋愛といった虚構の中で満足できない故に、いずれ最終的には鷺沢に支配されるという終わりを示唆しているのだろうか。