「ビラヴド」トニ・モリスン

ビラヴド自身もセサやベビー・サッグスに相当する奴隷制の経験を背負っていると思われるが、ビラヴド視点での歴史は断片的な印象として語られるのみである。そのためベビー・サッグスの思い出に触発された「開拓地」の合唱がビラヴドを追い出してしまうラストはあまりにセサやベビーに偏った解決策に思える。性的搾取だけでなく言語まで搾取されたビラヴド側の代弁者や物語がまったく不在である事実はこの作品の奴隷制への批判・解釈を単調なものにしてしまっている。

エラたちは自らの娘を殺害したセサやその保護者であったベビー・サッグスを孤立させるが白人の到来を知らせなかったという悪意もビラヴド「退治」の功績で相殺されているかのようである。しかしビラヴドが消えてしまうのであれば、一連の物語はビラヴドの殺害の反復でしかない。

デンヴァーが理解しているように心を破られたベビー・サッグスが色を眺めることしか出来なくなり衰弱死したのは白人が自分の庭に入ってきてその危機的な状況を察知したセサが自身の娘、サッグスにとっては孫を殺害する124番地の場所性だろう。しかしこの場所とはビラヴドがやってきた無時間の場所とは何が異なるのだろうか。サッグスが黒人コミュニティの中で孤立する中で自身が作った靴を届けても白人家庭に入ることすら許されない状況は白人がサッグスの家に入り込んでセサを追い詰めたのと対照的である。

ビラヴドやサッグスが生きてきた時間が流れない非対称な場所(スウィートホーム)は124番地として回帰しているがゆえに、この「場所」とはデンヴァーのような自身の関わりがない過去を知ろうとしない世代にとってすら容易に出られる場所ではないだろう。物語の終わり方、デンヴァーがレディ・ジョーンズの導きによって黒人大学に行くかもしれないという示唆はあまりに楽観的すぎるし例外的な救いだろう。

またビラヴドの誘惑に抗えなかったポールDが傷ついたセサの元に戻るという「希望」もビラヴドを子牛に例えることでセサへの罪悪感を解消しようとしたポールDのレイプファンタジーの延長であると考えられる。

ベビー・サッグスの「奴隷は自分自身で楽しいって気持ちを感じちゃいけないことになっている」という言葉は自分自身の肉体を愛すべきというかつてのサッグスの教え、合唱隊やデンヴァーを導くものよりも重い。それは足の不自由なサッグスが白人家庭に靴を届ける際、イスに座ることも出来ず手すりに腰を預けているシーンに表れている「疲労感」を意味している。