「人新世の資本論」斎藤幸平 

筆者によれば気候変動問題によって従来隠蔽されていた帝国的生産様式は暴かれた。この生産様式はグローバルノースで豊かな生活を実現するために、グローバルサウスにその負担を外部化し押し付ける構造に寄与している。

なぜこのような搾取が存在するかというと、新自由主義によって加速した資本主義には本質的に人工的な希少性を作り出す性質があるからだという。イギリスではじまった産業革命も囲い込みによって農村を追われた余剰労働力によって担われたが、この場合の土地は資本主義によって希少性を持ったといえる。

筆者はグリーンニューディールのようなケインズ主義も「グリーンウォッシュ」であるとして否定する。筆者によればケインズ主義的な環境保護と経済成長の両立は不可能であり、オランダの誤謬ジェヴォンズパラドックス等を取り上げてGDPとマテリアルフットプリントがリカップリングでありグリーンニューディールやSDGsによる経済成長も気候変動を解決しないと主張する。

次に左派ポピュリストの加速主義が否定される。筆者によれば左派加速主義は結局商品の論理にのみ込まれ、その原因は他律的な政治を自律的だと考え選挙という手段に訴える「素朴さ」にあると指摘する。また左派加速主義は構想と実行を分断し、トップダウン式の非民主主義的な意思決定に行きつくという。気候毛沢東主義が代表例として挙げられる。

筆者はマルクスが注目したというマルク共同体をモデルに脱成長コミュニズムを提唱する。これは要するに市民や協同組合が運営する再生エネルギーのような開放的技術を利用することで、使用価値に基づく経済で「減速」しながら持続可能なコモンを作るという構想である。

この著作の問題点は①人間と②科学に対する認識が浅いという点が挙げられる。マルクスにとって人間とは有機的自然であり、科学とは自然を非有機的身体とするための手段である。これらは相互に規定し合っているため、理想の共同体を実現するために開放的技術のみを取り上げることは出来ない。価値(有機的自然)と使用価値(非有機的自然)の対立にしてもスミスやリカードの労働価値説の範疇を超えておらず、マルクスが考察した労働価値説の発展である価値形態論に対する無理解が使用価値の尊重=コミュニズムという単純なマルクス理解に至った原因だろう。マルクスにおいて生産とは単に商品やサービスを生み出すことではなく、人間に自分の総体性を生み出すことを意味する。つまり労働が人間と自然の物質代謝であるのは有機的自然と非有機的身体が相互規定の関係にあるからであり、使用価値と交換価値の弁証法的対立を通じて貨幣形態という普遍的対象化(総体的疎外)が実現しているのである。

資本主義の厄介さというのは脱成長の中にも成長があり、その逆もあるような相互性であり、この相互性こそが貨幣という一商品をあらゆるものの価値形態にまで高めたと考えられる。貨幣という普遍的対象を通じて使用価値は価値によって完全に規定されており、価値から独立して存在できるような純粋な使用価値は存在しないだろう。構想と実行の分離にしても、問題なのは実行と実行の間の矛盾であり、構想と統合された実行はやりがい搾取や非正規雇用を正当化する論理となるのである。