勝ち負け論についての考察

経済社会的な劣位性に対し観念的な優位性を説くときに必ずある躊躇いが生じている。

確かに「勝ち組」「負け組」という判断基準には現実社会の搾取・非搾取の恣意性が認識されていない。生育環境のような外部要因も考慮されていない。

しかし「人生は勝ち負けがすべてではない」とか「負けと認めなければ負けたとは言えない」と主張するのは、反論する側にとっても何か抵抗感を抱かせる。これらの主張が正しいにも関わらず。

この躊躇いを俗物の保守性というのは簡単だが、俗物の存在こそ躓きの石だろう。

「負け組」の思考は搾取者による支配を「合理化」する。例えば自民党議員の4割が世襲であるが、優秀な議員なら世襲でも良いと主張する自民党支持者は、世襲制が議員の能力を不問にするための制度、つまりは既得権益であることを知っている。だからこそ「優秀」という条件を付け加えるのであるが、優劣の判断基準を決定するのが議員たち=権力である以上、「優秀」条件は無効にできる。無能な世襲議員こそ権力によって自らの立場を肯定しなければならないため、一層の権力欲を持っている(安倍晋三麻生太郎の執念)。閣僚や総理大臣に世襲議員が多いのも世襲利権に加えて、この権力への渇望が理由だろう。

また「在日特権」も一部の「負け組」が搾取者の支配を「合理化」するために編み出した特殊概念である。彼らにとって搾取は「在日」特権階級が不当な占拠を行っているため生じており、彼ら自身が積極的に受け入れている支配-被支配関係の結果とされない。マジョリティ意識に立脚する在特会が自らに生活保護を支給せよと要求することは論理的に出来ないのだ。強者の論理で差別を行えば自らの被支配的立場を否認してしまうため、外国人の「不正」受給のみを非難することで問題を間接的にしか論じえないのである。

このように「負け組」の合理化に際して、必ず支配-被支配的関係の観念上の改変が行われる。世襲議員の場合は支配関係の歪曲、在日外国人の場合は非支配関係への盲目という風に。

最初の問いに戻すと、「勝ち負け」論法に観念的な転覆は通用しない。「自分は負け組ではない」という否定の動作こそが「負け組」特有の観念の書き換えだからである。「負け組」はその否認によって本当に負け組になってしまう。既得権益と無縁の社会的弱者が自民党を支持するのは自らの「負け組」性の否認の結果であるが、返礼としてより大きな税・保険料負担が押し付けられ、本当の負け組として制裁を受ける。

では観念においても現実においても負け組にならざるを得ない「負け組」はどうすれば良いか。

自らの負け組性を積極的に肯定し、「負け」の観念性を高度化させなければならない。しかしこの解決策はすでに実践されているため、自民党支持者や在特会会員の単純な否認よりも辛く困難で危険な道である。

「自分は負け組であるが、日本人である」という肯定は日本全体が地盤沈下している社会で逆説的に観念的な高さを持ちえている。何か底知れぬ悲壮感と滑稽さを含んでいる。日本人であるという言葉が現実社会ではせいぜいパスポートを申請するときくらいにしか違いを生み出さない時に、「日本人である」ということは吉本隆明的な「幻想の砦」である。こういう一見弱弱しい幻想を、天皇制同様に、甘く見ることは出来ない。

別の、例えば「自分は負け組であるが、ひとりの人間である」という肯定は成り立つだろうか。そこまで人間そのものが抑圧される事態になっているだろうか。そもそも抑圧するに足る人間がこの社会にどれだけいるだろうか。満員電車で心身共に押しつぶされた乗客が倒れた別の乗客を跨いでいったり妊婦に席を譲らないどころか小言を言う。見慣れた分断の風景もある意味で人の生々しさという気がするが、縄張り意識の強い猿や犬といった動物の行動に近い。だからいちいちマウントを取ったり、マーキングをしたりするのだろう。人間という言葉は愚かさや生々しさを含むには綺麗すぎて形式ばっているので、こういう社会を表現する観念には相応しくない。

人間という言葉が本当になるためには、人々を人間に昇華できるような出来事とその出来事の観念的な受け入れがなされなければならない。マルクスの人間的解放過程だと仮定すれば、出来事と受け入れは共産主義の第一段階になる。