「大衆の侮蔑」スローターダイク

民主主義において大衆は互いに侮蔑を通してしか関わり合いを持てない。これは相違がいかなる差別を作り出さない前提の上で区別(競争)が行われたため、その結果である近代自体への無関心=非差異を社会の平準とするためである。ここにおいて自分を他人より良く見せようとする試みは挫折せざるを得ない。「万人の万人による侮蔑」はこの自己侮蔑(卑屈さ)が脱垂直化として全面化した状況を表す。ホッブスが人間を「恐怖」によって同質化したため、差別を正当化していた超世界(神・自然)はその無力さを露呈する。この状況に対してスローターダイクスピノザの解決策を対置する。「想像力の中での生」に対して公正になるとは、「唯一の避難所」としての芸術、文化的高さ(より良きもの)を失わないための「賞賛」を実践することである。しかしこのような「芸術」が承認を巡る垂直性と水平性の抗争に対する解決策になっているだろうか。むしろ競争の結果としての嫉妬心を緩和する「心理社会的な調整装置」としての文化産業に「堕落」してしまっていると考えられる。