シニカル理性批判

シニシズムは「現代に特有の曖昧な薄明状態」であり「啓蒙された虚偽意識」である。シニシズムとは敵を徹底的に物象化するマルクス主義や「夜への意志」によって権力を獲得したファシズムを含む全体論的傾向である。シニシズム批判としてスローターダイクが提示するのは「自由な対話というすこやかなフィクション」である。ワイマール文化がキニシズムがシニシズムに転じた事例として描かれる。医者か相続人かという不幸な左翼的二者択一と「敗北すら戦術に見えてくる」共産党の二重戦略、エーベルトやノスケのエセ現実主義、これらの小悪魔的なシニシズムファシズムという悪魔的シニシズムになすすべがない。シニシズムの思想的巨匠であるエルンスト・ユンガーは「戦闘を指揮する者は燃えてなくなっていく過程の背後に単なる変化を見て取る」として「生命の豊かな多様性」から見ると毛虫と葉を分断する苦痛の暗号を忘れると述べる。戦争報道によって指揮官的なシニシズムを身に着けた大衆がワイマール文化を担ったために死ぬ間際に「彗星は別になくともよい」とシニカルに嘯いたナポレオンが人気を得る。そしてワイマール政権下の大衆は左翼も含めて騙されることを欲し、シーザー役のヘボ役者であり自己暗示の名人であったヒトラーを支持してしまうのである。キニカルな犬がシニカルな豚に反転したワイマールの経験を経て「生けるもののリズム」や「万人の相互了解」はシニカル批判の「啓蒙のイロニー」たりえるだろうか。