「人間園の規則」スローターダイク

訳者である仲正昌樹の党派性しか見えていないような前書きから始まり「コード体系」そのものよりも「飼い慣らし」と「野獣化」の対立軸に終始するスローターダイクの本文、アレックス・デミロヴィッチによるスローターダイクの「ルサンチマン」の粗探しや「ナルシスティックな性質」へのヒステリックな反応に満ちたあとがきに至るまでの過程はまさに「自己愚鈍化」の極致といえる。スローターダイクの「曖昧さ」とはすなわちデミロヴィッチの無理解を表す。スローターダイクが「科学」や「出生前診断」を問題にしているわけではないことは、「人間が人間にとってより高次な暴力であることを意味している」という記述からも明らかである。議論の核心部分をずらすことによってしか成立しないデミロヴィッチの批判理論とは「死」以前に生まれてすらいないと言えるだろう。スローターダイクハーバーマスを相手にする必要はなかったと思われる。