「あなたが消された未来」ジョージ・エストライク

本書は生殖細胞系を編集するテクノロジーがそのあまりにユートピア的な語り口を通して身体や身体が存在することの意味を変えてしまう点について論じている。自身の娘であるローラの将来を心配する父親として、彼女を「できそこないの遺伝コードのたんなる一例としてではなく、一つのストーリーの持ち主」として認識することを訴える哲学者として語ろうとしている。そのストーリーが事実の断片に過ぎないとしてもである。

「未来の生き物の前では私たちは原始的で、微小な神経中枢を持つ蠕虫(p65)」であるが、彼らと比べた場合に私たち人間が知的障害のある者と定義されるかは疑問である。最も「高等」な生物が蠕虫に過ぎない人間を差別したり隔離して不妊手術を施す必要はないからである。人類が本当にゴールトンのいう「天才」に値する存在なら家畜を品種改良するように超人間を作り出すという誇大妄想を抱くことはしないのと同じである。エストライクは健常者=高等生物という安易な比喩を用いてしまっている。

「文化的価値観が自己決定に影響を与え、その決定はテクノロジーによって拡大し、集団効果になる(p98)」場合、健常者を自認する人々が日々行っている自己決定は「亀裂(p269)」ている。彼らの目に障害者は自らの決定不可能性を意味するメタファーとして映るがゆえに隔離や美化によって見えない存在とされるのだろう。新たなテクノロジーによって提起された「三重の不可視性(テクノロジー自体、思考、障害者)(p34)」は障害者の透明化のプロセスを加速させている。

エストライクが後天的な能力強化とDNAの直接改変を区別しているのは正しいが前者が「既存の過程を助長」しているに過ぎないと言い切るのは語弊があると思われる。何を既存の過程とみなすかは自身の生まれた社会環境や能力強化手段へのアクセシビリティによって異なるからだ。先進国と途上国では経済的にも文化的にも「既存」とみなしうる能力強化のプロセルは違いすぎるのである。エストライクは遺伝子というテクノロジー上の発見にすぎないものを本質主義的にとらえすぎるという失敗を犯している。