施政方針演説の御製引用

安倍首相は28日の施政方針演説で明治天皇の御製を引用した。天皇が1904年に詠んだ歌「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」は日露戦争の戦意高揚のために使われたのだが、「しきしま」なる言葉の意味を考えると日本政治の本質が良くわかる。御製の引用を単なる儀礼として片づけてしまえば天皇制の宗教的側面を見落としてしまうだろう。

敷島とは古代日本の国名と言われているが拾遺和歌集などではしきしまのみち=和歌の道として使われている。敷島=国家は後付けなのである。

「しき」は古代パーリ語で〈合唱・布告〉、「しま」は〈境界・戒壇〉に由来している。しきしまが和歌を意味したのは和歌が言葉でルール〈境界〉を作る行為だったからだと思われる。

しきしま=和歌が明治期にしきしま=国家となったのは国民国家が言葉が同じ民族の共同体という幻想を必要としたためである。しきしまは天皇制を存続させるための幻想で庶民の生きた生活ではないため、戦争を行い格差を拡大することでしきしまの信仰が維持されるなら天皇制は破滅的な選択も辞さないだろう。

このように日本における政治は天皇制を通じて宗教と結びついている。天皇の戦争責任が今に至るまで問えない原因は清祓によって犯罪は代行され人は罰を負わないという神道の考え方があるからである。

天皇の宗教的役割は官僚の無謬性にも拡大される。勤労統計をはじめとする基幹統計の4割が間違っていたにも関わらず内閣支持率が上がるのは人々が官僚制や議会制を元々信じていなかったからだと思われる。不正があって憤ることができるのは信じている人間だけだろう。天皇制は人々が官僚制や議会制を信じないことによって支配するための言葉であり続ける。和歌を詠む人間が従っている57577のようなものである。

官僚も天皇も選挙によってえらばれていない点では同様に民主主義の敵である。かつての新任官である検事総長国務大臣などが今は認証官として天皇に認証されている事実は、今に至るまで官僚と天皇が利害を同じくしていることを意味する。

勤労統計の不正を認識しているなら、天皇制=官僚制に対する徹底的な批判を加えなければ片手落ちである。