「官僚制のユートピア」デヴィッド・グレーバー

プレイの恣意性を否定する以上、ルールのあるゲームをする以外に選択肢はない。バットマンの世界がいかにファシズムの暴力に満ちていても観客は映画館に入館料を払って映画を見ている。このルールがある以上は別なルールの上に構成的権力を作るしかない。それしか今の官僚制が示唆する恣意性の恐怖から人々を救い出す術はない。グレーバーが今の官僚制で人が救われないと本当に思っているのであれば、よりマシな政治システムの計画を放棄するべきではないのだ。また確かに銃と情報の結合こそが金融権力の本当の力ではあるが、人々が何気なくATMで貯金を下ろすことにユートピアの部分的な実現を見るべきである。味気ない書類仕事でもそれに一生を費やす人がいる以上は単なるペーパーワークという以上の経済的な意味〈搾取〉があるだろう。何気ない仕事でも懸命に取り組む労働者は、警察官の銃よりもリアルな存在である。

想像力とは他人の身になって考えるところから始まると思うが、ATMやコンビニやネット通販の利便性は他人の身になって考えなくてもいいという点で十分ユートピアである。

またバットマンには構成的権力がないというが本書でも言及されているウォッチメンではヒーローにしてヴィランのオジマンディアスは米ソという構成的権力を操作することで核戦争を回避する。ナイトオウルやシルク・スペクターがロールシャッハの手記を使ってエイドリアンの「平和」を脅かす事が示唆されるが、しかしそこで映画は終わるのである。ウォッチメンの構成的権力は全面に出てきているだけでバットマンは隠れている。それだけの違いだろう。アメコミ映画の題材にならないとしても構成的権力の魅力と恐怖はスーパーヒーローをも捕らえているのである。

自分が思うに官僚制の魅力は世界の複雑さを縮減する事よりもそれを増大させる点にあると思う。特に内面的な複雑さは官僚制によって自然が制御される割合が増えれば増えるほど混沌としたものになるだろう。カフカの「城」が読まれ続けるのは官僚制が存続し続けるためだけに生み出す独自のルールが主人公にとって永遠に謎であり神秘であるほど複雑だからだろう。つまり時代が変わっても違う解釈をあてることで小説は古くならないのである。Kが城に働きかける運動は官僚制を通じてKの運命を予測不可能にする。そして物語の最後に主人公が官僚制に留まることを選択する時、官僚制の複雑さは主人公の内面や周囲の人間関係〈フリーダたち〉に移植されていることを読者は知るのである。よくわからない登場人物〈Kという名前がすでに不分明だ〉に感情移入するには読者と登場人物が同時によくわからない官僚制に向き合えば良い。登場人物と読者の共謀関係は官僚制の二重性を通じて得られたのである。