「夢遊病者たち」クラーク

クラークは責任問題を提起した者の責任を追及していないだろうか。

仮にドイツが紛争の局地化を「望んでいた」としても、それはドイツがオーストリアセルビアに対する戦争をコントロールする立場[裏で糸を引く]にいたことを意味しておりそれこそ露仏同盟が軍事同盟であった理由ではなかったか。

クラークがいくら実例を挙げ、「誰がその敵だったのか。それは誰にもわからなかった」と主張しても責任論を完全に放棄することにはならず、ドイツの予防戦争やベルギーへの最後通牒が相対化されることも決してないだろう。

「夢遊病者たち」クリストファー・クラーク

第一次世界大戦が発生し「世界大戦」にまで拡大した原因として①文民支配に対する軍部の自立化と②軍部の自立に関する「誤認と偽りの自己演出」が事態を不透明にしたと考えられている。ドイツがイギリス-ロシア間の協商関係を誤認したのも「事態の不透明性」故である。

「君主の混沌に満ちた干渉、文民と軍隊の曖昧な関係、そして大臣と内閣の一体性の弱さを特徴とする体制内部における重要政治家たちの敵対関係」が「大衆新聞のアジテーション」によって深刻化した結果、国際関係の不安定さがもたらされたとする。

クラークは第一次世界大戦の原因を「誤認」とすることで、歴史に偶然性を持ち込むが、専制君主制、立憲君主制、共和制と政体の異なる協商側、同盟側の国々はそれぞれがみな誤ったことには必然性があると思われる。

 

 

「時間と権力」クリストファー・クラーク

フリードリヒ・ヴィルヘルムからアドルフ・ヒトラーに至る権力者たちがいかなる時間秩序を構築し、また時間論的転回に翻弄されたかを描いている。

「哲人王」フリードリヒ2世はアントワーヌ・ヴァトーの「決してない」と「常にある」が奇妙に調和した絵画を収集し、直近の過去(諸身分との利害対立)を「歴史」から抹消する。

フリードリヒ2世は女性を嫌悪し、先祖と同じ墓に入ることを拒絶するが、この時間認識はナチスのフォルクの時間性にも見られる遠い過去と遠い未来の固い絆に対する愛着を示唆しているだろう。

ナチスにおいて重要なのは歴史ではなく啓示だとされるが、国家を否定したのはナチスだけではなかった。

国家を否定しつつ国家に依存してしまった結果ではないか。

トラウマと時間の一般性だけではなく相互関係への考察が必要である。

「改革か革命か」グレーバー、セドラチェク

共産主義に始まり資本主義で終わるゲームには円環構造がある。

経済学が宗教であるのも、この円環が原因だろう。

ウェストミンスター信仰告白

倫理学と経済学の間に主体なき主体の生がある。

コンテクストから引き離されたがゆえに、もう誰も利用しなくてよくなったが、個人的な痛みや経験にも事欠くようになる。

ビジョンは倫理か経済かのどちらかに属している。

 

「家父長制と資本制」上野千鶴子

家族や自然は市場の外部かもしれないが、そのような外部こそ資本主義の対象である。

本源的蓄積が土地の収奪によって実現したように。

場の理論を記述したマルクスが家父長制を視野に入れていないからといって理論の「頓挫」を意味しないが、マルクス主義を扱う側には家父長制の議論を回避する傾向が確実にある。

労働者と資本家の階級闘争がより複雑化しているのと同様に、男女の階級闘争も困難になりつつあるのではないか。富裕層の主婦が夫や子どもに軽蔑され幽閉されているのに対し、貧困層は「主婦」にすらなれず複数のパートを掛け持ちしている。

問題なのは男性による女性の抑圧によって利益を得ているのは当の男性ではなく、男性の帰属先という構造だろう。

抑圧された女性にとって問題は構造であるが、しかし敵はつねに男性なのだ。

そう考えなければ女性が主体的に行動する気力すら湧いてこないだろう。

構造と主体の矛盾が大きくなっている

構造はあまりに大きいため、敵対の対象にはならないのだろう。

だから結局資本主義にも外部はない。

 

 

 

「大衆の侮蔑」スローターダイク

民主主義において大衆は互いに侮蔑を通してしか関わり合いを持てない。これは相違がいかなる差別を作り出さない前提の上で区別(競争)が行われたため、その結果である近代自体への無関心=非差異を社会の平準とするためである。ここにおいて自分を他人より良く見せようとする試みは挫折せざるを得ない。「万人の万人による侮蔑」はこの自己侮蔑(卑屈さ)が脱垂直化として全面化した状況を表す。ホッブスが人間を「恐怖」によって同質化したため、差別を正当化していた超世界(神・自然)はその無力さを露呈する。この状況に対してスローターダイクスピノザの解決策を対置する。「想像力の中での生」に対して公正になるとは、「唯一の避難所」としての芸術、文化的高さ(より良きもの)を失わないための「賞賛」を実践することである。しかしこのような「芸術」が承認を巡る垂直性と水平性の抗争に対する解決策になっているだろうか。むしろ競争の結果としての嫉妬心を緩和する「心理社会的な調整装置」としての文化産業に「堕落」してしまっていると考えられる。

「城」フランツ・カフカ、新潮社、1981年

カフカの「城」は①Kが誰かという問いと、②フリーダの真意の二つを巡る物語であると考えられる。①の問題で最も重要な観点は「Kが測量士ではない」ことだろう。Kの非測量士性は「してみると城はやはり彼を測量士に任命したわけだ。これは一面ではKにとって具合の悪いことだった」という第三者視点の描写やKがオズワルドとの電話で「ヨーゼフ」という「測量士の助手」を名乗る描写に明確に示されている。Kの目的の多義性はこの非測量士性に起因していると考えられる。お内儀がフリーダにKは彼女をクラムに近づく道具として利用していると指摘するが、この見解はお内儀がクラムに見捨てられたという立場からきていると考えられる。お内儀のフリーダへの愛憎を加味すれば、Kがもともと測量士ではなくまたすぐに測量士になろうと思っていない以上、かなり一面的な見方といえる。Kの学校の倉庫の扉を破壊する行為はフリーダとの結婚や村の一員になることへの拒否であると考えられる。そのKと共同生活に踏み切るフリーダもペーピによればクラムや村に対する自身の存在価値を高めるために「一個の無」であるKを利用していると指摘される(②の観点)。これもまたお内儀のように自身の立場を奪われたペーピの妄想と解釈できるが、クラム(ビーズリー)が助手を派遣したと判明した後にフリーダが出て行ったことや、倉庫の扉を破壊したのがKだと自白し続ける助手にフリーダが思わず笑ってしまう描写はフリーダの複雑な性格やその真意を示唆しているだろう。クラムやフリーダの誤算はKが「城」そのものよりも「城」との交渉の過程で知り合った人々、女中部屋のペーピやオルガ、バルナバスやアマーリアのような立場の人々に親近感を持っていた点ではないだろうか。オルガの「あなたがこれらの手紙に一度だって大きな価値をお認めになったことがあるとは思いません。あなたはバルナバスに対する同情からのみ」城との関係(手紙)を求めたという指摘はKの分かりにくい目的に一番近い指摘と考えられる。