終わらない失われた20年 北田暁大

左派がアイロニカルな没入に陥っているというが、筆者の言う日本版ニューディールは「没入」が強さを持ってしまう思想的課題に応えていない。「~は正しい。だが~」という文体が現実と意識のギャップを表しているならなおさらである。性差別・格差・排外主義など意識の問題は経済的な下部構造から導き出せるものではない。下部構造に決定されているにも関わらず。

上部構造からも外れてしまうような無意識が露呈している状況は単にマルクス主義実在論と断じてしまう三浦雅士の視点からは出てこない。彼がバブル崩壊マルクス価値論の破綻であると誤認するのは価値と価格を混同しているからである。

北田や萱野の安っぽいソーシャル・リベラル〈?〉よりは上野千鶴子の「綱渡り」や雨宮処凛の「でも遅すぎた」という認識の方がはるかに現代の課題に応答しているといえる。