「共同幻想論」吉本隆明

特筆すべきは対幻想論と共同幻想の同一性・異質性である。著者は場合によって使い分けている。エンゲルスの集団婚を否定するために母系制〈共同幻想〉とプナルア婚〈対幻想〉は結びつかないというが女〈対幻想〉が鉈で殺され狐〈共同幻想〉になる話は対幻想=共同幻想である。なぜそれが古代においては成立しないと言えるのか。兄と妹に性交はなく性行為しかないと言う時、なぜ性が幻想〈タブー〉として疎外されなければならなかったのかを語っていないのである。対幻想が語り継がれる構造自体が共同幻想の語りだとするとオオゲツヒメや箒の祭で殺される女性は最初からすでに死んでいる。

母系制の起源を集団婚に認めるエンゲルスの家族観を否定するあまり、古代において「人間」なる自己幻想を導入し夜這い婚やボノボチンパンジーの生態を無視しているのはあまりに天皇中心的すぎる視点ではないか。

また夏目鏡子漱石の関係にしても対幻想を求める漱石に肩入れした結果、夫婦の間にある問題が個人対家族、対幻想対習俗という図式にはまり、漱石が道草で肯定しなければならなかった文学の自分と家族の中で振る舞う父親としての漱石を見逃している。鏡子の習俗は父親としての漱石に対するものだから、夫婦はどちらも究極的な個人とはなりえないのである。

吉本の欠点は対幻想と共同幻想の同一性や発展性を認識しながら同時に対幻想に対する自己幻想ゆえに性行為を純化させ、その現実過程であるところの性交という無残な現実を嘘だ〈異質性〉と断じてしまう反動性にあるだろう。古代において性交の現実過程が見いだせないなら現代に視点を移すべきなのだ。

サホヒメやスサノオの倫理は古い社会から新しい社会への移行期に生じる矛盾を表しているというが、なぜ失われつつある農耕社会や兄妹の共同体制に対する罪悪感が生じるかについては語られていない。ここがもっとも重大だと思うのだが。

自分が思うにかれらの疎外とは可能性の直感である。上部構造〈幻想過程〉でも下部構造〈生産様式〉でもなくこの二つが将来一致するであろうと人々は無意識的に直感している。

サホヒメの話も単に兄に加担する〈意識〉のではなく、夫に兄の計画を打ち明ける〈現実〉。つまりサホヒメは兄に心情的に加担すると同時に天皇も救おうとしているために「矛盾」しているである。単にサホヒメが兄に殉じたわけではないことは子供を天皇に残しているところからも分かる。

意識と現実のズレを体現したサホヒメがどちらかを優先しないで死ぬ事実はエンゲルスの「物自体は認識できる」という一見矛盾した命題の正しさを証明し、その際には共同幻想〈サホヒメ〉が消滅するということを意味している。