「日の名残り」カズオ・イシグロ

執事スティーブンスにとってファラディに受けそうなジョークの練習とはミス・ケントンとの間に築くことが出来なかった「人間的な温かさ(p296)」を作りだす試みといえる。執事としての仕事と捉える点にスティーブンスの性質が現れている。

婚約の申し出を受けたミス・ケントンを放置して「すぐにでも上にもどらなければならない(p163)」スティーブンスは決して他人の感情が分からない人間ではない。だからこそ見えないミス・ケントンが泣いていると思い「両手にお盆をもち、廊下の暗がりの中に立って」いたのである。

ダーリントンは「高貴」であるとスティーブンスは称えるが、スティーブンスをスペンサーの恣意的な質問で笑い物にすることを許容した人間でもある。ダーリントンの客であるデュポンはスティーブンスの父親の死を看取りに来た医師に自分の足を診させる。

ティーブンスはダーリントンやその知人たちの欠点にも気づいているがそれを表現する術がない。「お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそういうことがおできになりました」という物言いはユダヤ人の女中、ルースとセーラを追い出した時のスティーブンスの反応と同じく、彼がダーリントンの欠点に初めから気づいていた事実を証明する。ただスティーブンスは「卿の賢明な判断を信じ」たのである。

しかし最終的に「自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません、そんな私のどこに品格などがございましょうか(p294)」と自らの分身のように横に座っていたもう一人の執事に問いかける。執事としての品格に生涯をささげたスティーブンスはミス・ケントンの遅すぎた告白によって自分の人生に疑念を持っているのがわかる。

「お屋敷込みはあんた込みで売られたわけだ」と笑う桟橋の男に「さよう」と正直に答えるシーンにはスティーブンスが自分の人生に投げかけた悲哀なユーモアがある。

社会主義者のカーライルは否定的に見ているがお屋敷込みの執事として生きたスティーブンスは「旅」の終わりに民主主義というジョークを理解しようとしている。そしてダーリントンの試みを「壮大な愚行(p243)」と判断できる。ミス・ケントンが考えていたスティーブンスと「いっしょの人生(p288)」とはスティーブンスにとって今も昔も一種の「過ち」なのであるが、ジプシーをカラスではなくツバメに例えるという難解なジョークでファラディを困惑させるスティーブンスはその過ちによって一つの道を選んだと言える。

桟橋の男が屋敷唯一の住み込みの雇人で、戦前は「ただの下僕」だったというのはスティーブンスのどこか茶番めいたダーリントン・ホールでの日々やミス・ケントンの存在が「ただの下僕」であるスティーブンスが夢見た虚構だった可能性を示唆している。

カーライル医師はスティーブンスが主人ではなく召使であることを見抜いたが、スティーブンスが実は召使ですらなかったという仮説も彼がウェークフィールド夫人にダーリントンの元で働いていないと嘘をつきあえて「まがい物」を演じている(ウェークフィールドがファラディに確認するのは容易に想像できる)点から十分ありえることだろう。