言論の自由の商業的な基盤

10月に新潮45が廃刊になった。自民党議員杉田水脈の「LGBT支援の度が過ぎる」という論文が理由とされたが、単に新潮45が売れなくなっただけだろう。一出版社の一雑誌が廃刊になった程度で衰退する「言論の自由」とは商業ジャーナリズムの偽装に過ぎない。新潮45の記事は商業ジャーナリズムの支えがなくなった言論の自由である。言論の自由とは杉田論文のような商業的な下劣さを基礎にしている。

メディア全体に言えることだが一企業として商業性と言論人としての公共性は初めから一致するものではないのである。今までそれが一致しているように見えたのは出版業界がマスメディアでは報道されないような部分を補完する役割を担っていたからにすぎない。今テレビや新聞のようなマスメディアは大部分が衰退しているし、メディアを補完する雑誌の役割はネットに移った。雑誌が衰退するのは資本主義の必然なのである。少なくともネットで補完されるのは恣意的なブログや発信者が匿名の集合体であるまとめサイトが発する不確かな情報なのであるが、雑誌を補完できてしまっている事実を見ると雑誌メディアも元々匿名性ではないもののネットと同じく不確かな情報を恣意的に扱っていたのだろう。

新潮45廃刊で明らかになったのは、商業ジャーナリズムにおける「生産性」の欠如がネットにおけるフェイクニュースを生み出すに至ったという経緯である。