「天皇制の基層」書評

自分は次の4つの観点からこの本に批判的な意見を持った。

1.大衆体験としての天皇

20かそこらで終戦を迎えた吉本とポスト団塊世代の赤坂では議論が噛み合わないが大衆体験ということで言えば同じく象徴天皇制を生きている。だからこのような対談が成り立つわけで世代論という分かりやすい対立軸を容易に超えてしまうのが天皇制の役割だろう。世代論を超えたところで理解しがたい話をしなければならないのは確かに事実であるから。

 

2.個としての天皇

昭和天皇が戦時中に何々をしたという事が戦争責任を追及する際に不必要だとは思えない。統帥権の観点から昭和天皇の戦争責任を問うのは象徴天皇制になり天皇大権がない今の天皇制の中で戦争責任を言うのは限界があるのではないか。「個」としての天皇を除いてしまうとかつて統帥権を持ってしまった天皇が贖罪として象徴を演じているという分かりやすい別の「個」のストーリーを生んでしまう。残念ながらメディアも書き手も昭和天皇個人の内面と当時の政治状況を容易に繋げてしまう。知るべきは個と全体を繋ぐ回路としての天皇だろう。

 

3.宗教としての天皇

天皇制よりも古い民間信仰を探すことは天皇制の基盤を揺るがさない。日本書紀古事記が記しているように天皇の権威は天津神(外来神)としてのそれであり逆輸入や海外の評価に過剰に左右される現代日本でも「外から来た新しいもの」は大変好まれるからだ。そして新しいものが受容された後は古いものが「再発見」される。沖縄の乗瀬御嶽に鳥居が建てられたのは鳥居の起源が韓国やタイにあったかもしれないという過去を再発見したのでなければ侵略の象徴として成り立たないではないか。

 

4.天皇制の終焉

農耕祭祀としての大嘗祭がたとえなくなっても、農業自体が産業として成り立たなくなっても天皇制は残る。自ずから形骸化したり終焉を迎えることはないだろう。それは平成最後の年に減反政策が廃止され農産物の関税82%を撤廃するTPPが批准される一方次の皇太子の即位にほぼすべての政治勢力が賛成している事からも明らかである。天皇制が終焉するとしたら宗教的・政治的権威の結節点としての天皇制を社会からこぼれ落ちてしまったすべての人がすべて否定する時だけだろう。

 

・結論

結果としてこの対談本は天皇制の政治的役割を軽視することでその宗教的権威を補強してしまっている。象徴天皇が大したものではなくいずれ自然と消滅する可能性があるのであれば敗戦直後に天皇主権が名目上否定された時なぜ天皇制そのものは延命できたのか。赤坂が言うように普段天皇について考える人は稀でたまにテレビに映る著名人くらいの認識しかないとしてもなぜそんなものが73年間もずっと続き得たのかの理由にはならない。表面的には何の影響もないようで官公庁の資料を見れば元号はかならず使用されており天皇はどこかしらでなんらかの公務をやったり祈祷をやったりしているのだから影響がないわけはないのだ。吉本は天皇の怖さを感じなければ天皇については分からないと言ったが今考えなければならない問題は天皇に怖さがなくなってしまった結果天皇制に反対する場合何に反対すれば良いのかわからなくなってしまっている事だろう。大嘗祭が行われなかった240年間の空白に天皇制は根本的な変化を被ったというのが自分の見解であるがこの事の答えはまだ出ていないのでこれから考えていこうと思う。