アメリカのユートピア フレドリック・ジェイムソン

アメリカの連邦制を超える可能性は軍隊である。ジェイムソン以外の論者が指摘しているようにこのユートピア的提案に多くの問題がある。他者の象徴的空間はどうなるのか、国家権力との断絶をどうするか、性的な非中立性、労働と非労働の区別、政治の快楽と厳格な生産の境界は本当にあるのか等。

しかし大まかな図式から言えば、資本論精神分析がそうであるように無力さから不可能性への転化が剰余価値や治療を可能にしていることを考えるとジェイムソンのユートピアが不可能に見えるということ自体が政治プログラムを可能にする。不可能と可能はコインの裏表みたいなものなのだろう。

ユートピアが今ディストピアとしてしか想像できないようにディストピアへの願望や恐れはユートピア的プログラムにもなりうるだろう。しかしこの表裏一体となったユートピアディストピアは別の二重性(不可能性)を生むではないだろうか。

ユートピア的生産の中に欲望が、ユートピア的欲望の中に生産が新たな二重権力として発生した場合、軍隊や精神分析斡旋局はこの前衛に対抗できない。