「享楽社会論」松本卓也

今の社会はフロイト的な無意識(超自我エス)の欲望がなく麻薬依存のような享楽しかないという。この現状認識から著者はポスト基礎付けであるとか、特異=単独の普遍化等が必要と述べるが単に別の父の名が回帰しているようにしか見えない。キルケゴールの例外を神の愛として捉えているのがいい例である。キルケゴールは神や例外等持ち出すまでもなく、レギーネと現実に結婚することを目指さない時点で例外ではなく不可能の享楽である。

資本主義のディスクールは剰余享楽と主体〈〉が主人のそれと違い、実線で結ばれるというが、ラカンが参考にしたマルクスによれば剰余価値の帰属をめぐる争いが階級闘争である。主人や資本主義から全ての幻想を奪取し、自然疎外と社会疎外、自己疎外と共同疎外を共に転覆するという企てが革命である。本当に実線で繋がれているのなら、剰余享楽の帰属をめぐる闘争が不可能である根拠は幻想の私有権に求めるべきである。

フロイト的〈物〉に触れなければ統計的超自我自体が生み出す象徴界の代わりとしての欲求に従属してしまうのは避けられない。欲望自体が満足体験欠如の代替物なのだから欲望自体が欠如すればここにもまた代わりの欲望があるのである。この意味で象徴界が単純に衰退したとは思えない。

欠如に留まり時間を稼ぐという戦略は魅力的ではあるが時間や余裕がある場合に可能なもので、今この社会に残された時間はもうほとんど無いだろう。