「情況とはなにか」吉本隆明

著者によれば家・家族は対幻想であるが、対であるという理由で共同幻想のように地上を離れることができないという。庶民が町内会の面々にさかんな見送りを受けて兵士となるために家を出ていくときの元気で御奉公してまいりますという紋切型の挨拶に著者は家の対幻想と国家の共同幻想の違いを見出すのである。

紋切型の挨拶に暗示されている大衆の原像を思想に繰り込み、頭の切り替えではどのような情況も通ることができない幻想を作り上げるのが著者の課題だとしても対幻想自体のズレもまた国家本質であるところの共同疎外に繋がっているのではないかと思う。

たとえば高村光太郎の「あどけない話」とはあどけない「空」の話であるが智恵子が「ほんとの空」と言う時、東京生まれの光太郎は「むかしなじみの」「うすもも色」の空を見ているが、智恵子は故郷福島の安達太良山の山の上の青い空を見ているのである。

智恵子の死後に始まった太平洋戦争、真珠湾攻撃を光太郎が「アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」といって賛美し始めるとき、おそらく東京の空の漠然としたイメージだけでは単に陳腐であるが、智恵子との違いを含む対幻想、要するに昔一緒に空を見て違って見えただとかそういう思い出、が含まれていた場合、国家本質として共同疎外は大衆にとっても実際に捉えうる幻想ではないか。

対幻想は地上にあるとしても、幻想の方はあまりに解釈のふり幅が大きすぎるのだ。