「二・二六事件を読み直す」堀真清
青年将校に同情する著者は、皇軍派と西田派を分離した上で、後者の「純潔」を称賛している。二・二六事件以後に「幕僚ファッショ」による上からのファシズムが実行されたという記述は、青年将校の代弁といえる。
しかし、彼らの「革新の勇気と情熱」を称揚することは、彼らが4日間で次第に追い詰められていく経緯を軽視しすぎている。
相沢が北一輝を「信じている」と言わざるを得なかった事情や兵隊が栗原中尉が読み上げた「蹶起趣意書」を理解できず、「半ば呆けている」状況を著者が理解できているようには思えない。青年将校の空回り、大乗的物言いの虚しさこそが二・二六の本質ではないか。
いくら国家の革新や皇国の為といっても、そのような大義名分を立てなければ行動を起こせない彼らの主体性の無さ、無思想は青年将校たちが抱えていた疎外である。
青年将校の幕僚ファッショ批判も中橋基明の「最後の面会の時、後を振り返って見られた母上様、おしげ叔母様、高ちゃんの顔が目に浮かびます」という遺言ほどの価値もないのである。
「人類最期の日々」クラウス
人類の最期とはキリスト教文明の最後の姿としての第一次世界大戦を指す。
カール・クラウス(不平家)はドイツやオーストリア同盟国側の戦争をトイレットペーパーにシェイクスピアの引用を印刷するような「野蛮性の生ける印」として批判するが、イギリスは「商売をしたいときにそれを祖国愛と呼ばない」清潔さを持っていると評価している。ランス大聖堂を爆破されたフランスや捕虜を虐殺されるロシアに対してもクラウスは同情的であり、自国には手厳しい批判を加えている。
クラウスの批判は不平家の理論としての側面と民衆の生活描写という諷刺の側面に分かれる。戦争ごっこをする子どもや塹壕を子どもの遊び場のように理解するジャーナリスト等、「悪魔も身震いする」ような描写こそ、クラウスの批判の本領かもしれない。
腕を無くしたために敬礼が出来ない傷痍軍人、戦争に浮かれた群衆の中で「スミレをどうぞ」と叫ぶ花売り女、「他人の意見など要らない。お前の言葉が聞きたいんだ」と戦場から手紙を寄越す兵士。戦時中の人々の悪趣味さを描いたこの作品の中にも、わずかながら最期を飾るのに相応しい言葉がある。
「黒魔術による世界の没落」クラウス
ジャーナリズムの「装飾」を「あらゆることがあたかもなのだ」と批判するクラウスは、文芸欄に広告が掲載されることよりも広告がポエジーによって装飾されることをより問題視している。
例えばジャーナリズム的感性の源流となったハイネの詩である。
「娘さん、しっかりなさい。こんなことは珍しくはない、陽は前に沈んでも、やがて後ろからやってくるものだ」と日没に感動した女性に呼びかける詩を「女の子に敬意を払っているのではなく、日没に敬意を払っている」センチメンタリズムと批判するクラウスはシニシズムにおいてハイネを軽く上回っている。しかしジャーナリズムが一見イヌサフランを描写しているようで、詩が機械的幸福論の一部として機能している矛盾を突いている。
現代のジャーナリズムは視界のはるか外に存在する水平線の彼方の汽船を詩的に描写する。クラウスにとってこのような視界の拡大は近代的合理主義の出所である「暗闇」を失われた精神の代用物である不安として表出させるだろう。
「美しく書き、ピアノを弾いていた」ただそれだけの十分だった過去への憧憬が過分とはいえ、供給が需要を生み出さない世界への喪失感と奇形の未来への不安はクラウス「自身」の問題意識や言葉なのである。
「史上最大の革命」ローベルト・ゲルヴァルト
本書の基本的な軸として陸の帝国の崩壊と国民国家の誕生、民族自決権の矛盾としての少数民族問題が挙げられるだろう。
ゲルヴァルトはドイツ革命を史上最大の革命としながら、ローザ・ルクセンブルクの殺害描写等は彼の革命に対するシニカルな両義的姿勢を表す。
1923年末まではワイマール共和国の「成功」があったのであれば、その後になぜナチスが台頭したのか。ゲルヴァルトはあり得たかもしれない歴史の可能性を追求するあまり、ワイマール以後の長期的な展望を欠いている。
とはいえ、ナチス自体が否定される現代においてもナチスの歴史観[失敗した革命のワイマール共和国]は根強く継続しており、ワイマール共和国の複雑さに対する再評価は不可避であると思われる。